公開した自分の記事を読んで、ふと息苦しくなった
ブログを開設して、4本の記事を書いてきました。
うまくいかない日常についての自己開示と、試行錯誤しながら作ってきた自分なりの工夫たち。
文字にしていく作業は、頭の整理にもなりました。
「私、なんだかんだ頑張って生きているな」と少し自分を認められて。
「誰かの役に立つかもしれない」という期待もあって。 とても楽しく書くことができたのです。
けれど。
いざ公開された自分の記事を読み返したとき、体の奥からモヤモヤ〜としたものが湧き上がって広がって……。
なんだか苦しくなってきました。
「あれ、これって本当に私のことだろうか?」
「私、こんなに毎日うまく暮らせている人間じゃないよ……違うよ」
胸の中に広がったのは、強い違和感と居心地の悪さでした。
言葉にするたび、切り落とされていく自分
確かに、ブログに書いた工夫(睡眠の記録、服のパターン化、タイマーを使った先延ばし対策など)は、私が実際に日々実践していることです。
ブログ用の創作ではありません。
けれど、現実はそれだけで綺麗に回っているわけではないのです。
相変わらず派手にやらかしますし、工夫がまったく通用しなくてフリーズしてしまう苦しい日もたくさんあります。
工夫とやらかしのあいだで、今もジタバタしながら暮らしているのが本当の日常。
それなのに、文章としてひとつの形にまとめた瞬間、まるで「過去を克服して、今はすっかり整った生活を送っている人」のような輪郭だけがくっきりと浮かび上がってしまう。
言葉にして表現するたびに、言葉にならなかった無数の自分が切り落とされていくような不安を感じてしまいました。
表現したものが、刃を向けてくるような感覚
せっかく楽しく書けていたのに。
後からじわじわと苦しくなるなんて、一体どういうことなんだろう。
ブログを書くというのは、ひとつの「表現行為」だと思います。
けれど、自分が生み出した文章が、まるで振り返ってこちらに刃を向けてくるような……。
「お前は本当にそんな立派な人間なのか?」
自分が自分に裁かれるような息苦しさがありました。
もしかしたら、著名なエッセイストや作家さん、文章に限らず何かを表現する人たちもみんな、そうなのだろうか。
こういう「自分の多面性が切り取られてしまう葛藤」を抱えているのだろうか。
外側からは、切り取られた一面しか見えません。
けれど、それだけがその人のすべてではないはずです。
ブログに書いたような工夫をして暮らしているのも私。
そして、相変わらず工夫が通用せずにやらかしているのも私。
どちらか一方だけが本物なのではなく、どちらも紛れもない自分なのだと思います。
相手の「たったひとこと」に囚われなくていい
表現者に限らず、人というのは誰しも、いくつもの面を持って生きているのだと思います。
日によって、相手によって、そのときの状況によって揺れ動いているのでしょう。
そう思い至ったとき。
「そうか、ずっと苦手だった人間関係のことも同じじゃないか」と考えがつながりました。
「私が『ブログに書いた一面だけが自分だ』と決めつけられるのが苦しいように、相手のある一面だけを見て『こういう人だ』と決めつけるのも、苦しさを生む原因なのではないか」
私は昔から人間関係が本当に苦手で、相手の何気ないひとことに囚われては、何日も気を揉んだり落ち込んだりしてきました。
けれど、あの時グサリと刺さった言葉だって、その人が持つ無数の面の中の、たったほんの一面の、ほんの一部の言葉に過ぎません。
相手の一面だけに過剰に反応して振り回される必要なんて、実はないのかもしれません。
そしてそれは、自分に対しても同じです。
ある日、ある瞬間の失敗やダメな行動だけを切り取って、「やっぱり私はダメな人間だ」と自分を全否定したり責め立てたりする必要もありません。
それもまた、私のほんの一面にすぎないのですから。
50代にして、ようやく腑に落ちたこと
そうか、そういうことか。
もしかしたらこれらは、世の中の一般的な人たちならとっくに知っている「当たり前のこと」なのかもしれません。
でも、私は50代になって、自分でブログを書いて葛藤して、ようやく心から腹落ちしました。
私は、劇的に生まれ変わるわけではありません。
相変わらずADHD傾向を抱えたままだし、うまくいく日もあれば、ダメな日もあります。
他人のひとことに傷ついて、何日も鬱々としてしまうこともこれからも多々あるでしょう。
でも、その割り切れない多面的な自分をまるごと抱えて、歩いていくしかありません。
「まあ、そんな自分と一緒に、これからも試行錯誤しながら暮らしていこう」
キーボードを前にして、少しだけ息がしやすくなったような気がしました。
そうしてこれからも毎日は、続いていくのです。


コメント